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経済学とモラルサイエンスについて、文献の大雑把なまとめ
 現代の経済学の主流である新古典派は、ある面においては経済成長をもたらすのに大きな役割を果たしたと考えている。
 ある時期までの現代経済学は、現実社会を論理整合的に説明する事に腐心し、十分とは言えないまでもある部分は説明しえてきた。
 ところが、特に1980年代に入ってからのバブルの発生があった。このバブルは前世紀までのバブルとは本質的に異なり、現代経済学の論理をそのまま現実世界に押し広げて、現実世界を現代経済学の論理に置き換えていった結果として起こったと考えている。まさにこの時、経済学の暴走が始まったと考えていて、もはや今日では、経済学をいくら建て直しても、現実経済の諸問題を解決する能力すら失っている。つまり、理論と現実の乖離、というレベルよりももっと深刻な、問題が起こっており、暴走したものを止める事ができない、そういった学問が学問でありうる、という事に本質的な危機感を感じている。
 では、80年代からの経済の暴走と、経済学が現実の経済を捉えられなくなり、有効な政策も出てきていない事の根源がどこにあったのか?
 スミスは『道徳感情論』で、人間が他の人間に対してシンパシーを持ちえるという前提で人間社会が成立していることを強調している。ところが、限界効用学派が出てくると、この従来の古典派の人間像を基本的に変えてしまう。ホモ・エコノミカスという非常にグリーディーな人間を想定して、その上に経済学を築き、古典派のポリティカル・エコノミーを否定していく。
 さらに、その「経済人」は最大の効用を求めていくと仮定され、更に非現実な前提がおかれていく。そこから作り上げられた理論は、実は現実とは距離があるはずだったのが、今度は現実を説明しうる、さらに現実に政策的に働きかけられるという、一種の錯覚に陥った。
 一方、モラル・サイエンスという点は、本来はマーシャルにもあったし、ケインズにもあった。あくまで経済学は限定された領域として意識されており、ケインズまでは、モラル・サイエンスが絶えず追究されていたと考えられる。
 しかし、第二次世界大戦後、新古典派総合がアメリカを中心にして形成されてくる中では、もうモラル・サイエンスという視点は一切なくなった。そうして80年代の暴走が始まったと考えている。
 そういった問題に対して、現在2つの方向で新しいフレームワークの構築が始まっている。1つは、ポリティカル・エコノミーの復活で、経済学を政治学や法学と関連づけていくというフレームワークである。
 もう1つは、合理的な「経済人」という前提そのものを考え直す事で、心理学者との共同作業も行なわれている。
 経済学は一度諸科学のワン・オブ・ゼムにならないとダメだ。それなのに、日本の経済学者は依然として、経済学が中心だと思っている。経済学の研究に従事している人自体が、それを相対化していかないとポリティカル・エコノミーは発展しないだろう。